カナダ西海岸の先住民とポトラッチ

<ブリティッシュ・コロンビア州の先住民>

 BC州には言語・文化の違う30の部族が197の部落に分かれて住んでいますが、生活習慣の違いから太平洋沿岸部に住むCoastal People、内陸南部に住むInterior Plateau People、内陸北部に住むSub-arctic Peopleの三つに大きく分類することが出来ます。その中でも太平洋岸に住む部族は昔から内陸部の部族に比べ、テリトリーの広さの割に大きな人口をかかえています。これは内陸部の先住民が狩猟・採集で常に食料確保に汲々していた一方、沿岸部に住む先住民は漁労・採集の食料確保で苦労がほとんどなかったことが、その大きな理由と考えられています。

 毎年同じ時期に決まった川に産卵にやってくるサケと初夏から秋にかけて森がもたらす数種のベリー(野イチゴ)を貯えておけば、冬の間も食料の心配をすることがなかったのです。さらにこの地は一年を通して海から吹く西風が温帯降雨林を作り上げています。異常に速く成長する巨木の森が広がっているのです。スギ、ツガ、モミ、トウヒの四種類の針葉樹が中心ですが、その中でもスギ(ウェスタン・レッドシダー)は先住民にとって命の木と呼ばれるほど大切なものでした。長い冬の間、女性はスギの内皮で籠や衣類を編んだり、男達はその木の幹から日常生活に使う器や祭事に使われる面、トーテム・ポールなどを刻みました。トーテム・ポールは北米に住むインディアンなら、どの部族も作っていたと誤解されることが多いのですが、この習慣はアラスカの南部からカナダのブリティッシュ・コロンビア州そして米国ワシントン州北部の太平洋沿岸部に住む部族だけが持っていた文化でした。食料を求めて移動を続けねばならなかった内陸部の部族には、こういう芸術制作に費やす時間的余裕はなかったのです。

<ポトラッチ>

 先住民には大事な決定事項が発生すると、近隣の部族の全員を招き宿舎、食事を提供し歌と踊りでもてなすだけでなく、お土産まで持たせて帰す習慣がありました。この大集会をポトラッチと呼びます。文字を持たなかった先住民にとって、大事な出来事を発表する時の証人として近隣の友好関係にある部族の人達に立ち会ってもらうことは、とても大切なことだったのです。実は最近、沿岸部の先住民のポトラッチを体験することが出来ました。

 バンクーバー島の西海岸に住むヌーチャヌルス族の先住民としてポート・アルバーニで生まれ育ったジェフ・ワッツ(Jeff Watts)氏に今年7月に知りあった私はその後、急速に先住民文化にのめり込むことになってしまいました。現在このジェフさんに強引に弟子入りし、先住民の文化について勉強させていただいております。

 8月には62歳の彼の再婚の結婚式に招待され、さらに今回なかなか体験できないポトラッチに彼の家族のゲストとして参加することになったのです。

<クァクァキーウス族とアラート・ベイ>

 誰でも参加できるパウワウ(Pow Wow)と違い、ポトラッチには招待された人以外は参加できません。バンクーバー周辺などをテリトリーとするコースト・セイリッシュ(Coast Salish)族の各部族のポトラッチには、その部族以外の人はまず参加できないようです。この度のポトラッチはジェフさんのお母さんの出身部族であるクァクァキーウス族のものでした。このクァクァキーウスは比較的オープンな部族ではありますが、今回アラート・ベイで開かれたポトラッチに参加した500名くらいの中、先住民以外で参加を許された人はごく僅かだったようです。白人の方が10名前後、アジア系は私だけだったのではないかと思います。

 アラート・ベイはバンクーバー島の北端に近いポート・マクニールからフェリーで30分ほど行ったコーモラント島にあります。コーモラントは英語で鵜のことで、その名のとおり入江のあちこちでヒメウ、ミミヒメウやハシグロアビ、シノリガモなどの海鳥が見られます。さらに宿泊したユースホステルはハクトウワシとワタリガラスの鳴き声で目覚めるという先住民の文化体験をするのに、これ以上の設定はないと思われる環境でした。

 ポトラッチの会場はアラート・ベイのビッグ・ハウスと呼ばれる全てウェスタン・レッドシダーで作られた正方形の建物です。入口奥正面の二本の柱には伝説上の鳥サンダーバードと森の魔女ズウェンカが、入口近くの二本の柱にはハクトウワシとクマが刻まれています。それぞれの梁にはこれまた伝説上の生きもの、双頭の海蛇シシチュアルが刻まれていて、クァクァキーウス族のトーテムポールに出てくるモチーフに関する私の僅かな知識でも理解できるのでうれしくなります。正面には三列で各部族のチーフが座り、左右の最前列にはエルダーと呼ばれる古老が座っています。

<アラート・ベイのポトラッチ>

 今回のポトラッチは10月31日(金曜日)と翌日の2日間にわたった行事でした。初日が午前10時から午後10時までの12時間、翌日は最終日ということもあって同じく午前10時からはじまったのですが、全てが終わった時には時計は零時を過ぎていました。それでも、昔からみると簡素で短期間になったそうで、ヨーロッパ人が入ってくる前のポトラッチは数週間に及ぶものもあったと聞きます。大型カヌーでの移動に何日間もかかった時代ではなかなか集まることが出来ないので、いったん集まれば同時にいろいろな発表を行い、別れを惜しむ宴が延々と続けられたのでした。開催時期は収穫の繁忙期が終わったこの時期、秋が多かったようです。ただし、カナダの連邦政府はこれを野蛮な習慣と考え1880年代にポトラッチの開催を禁止しました。しかしクァクァキーウス族は1950年代にポトラッチの開催禁止令が解けるまでの間もこのアラート・ベイでこの行事を密かに続けていました。バンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学の人類学博物館の展示されているポトラッチの踊りで使われる面のコレクションでも、そのかなりの部分がクァクァキーウス族のものであることからも分かるとおり、アラート・ベイのポトラッチでの踊りは多彩でした。

<ポトラッチでのもてなし>

 招かれた人々には2日間とも昼食、夕食が振る舞われます。とくに昼食は時間を節約するため、地元の部族の方々がサンドイッチやジュースなどの食事を観客席まで配ってくれます。夕食は中央の土間にBuffetが用意され、部族のチーフ、古老そしてその他の参加者の順に取りにゆきます。伝統的なバーベキュー・サーモン、ハリバット(おひょう)、数の子、ウーリガン(ロウソク魚)のくんせいや、バヌック(先住民の揚げパン)、ロースト・ビーフ、クラム・チャウダー、魚のスープ、野菜サラダなどが所狭しと並べられます。どれもが美味しくダイエット中の身なのに、かなり食べ過ぎてしまいました。やはりそうか、と思ったのはアルコール類が一切なかったことです。ヨーロッパ人が持ち込んだ酒で身体を蝕まれた人が多かった歴史が今も尾を引いているのか、コーヒー、紅茶、ジュースはあったもののワインさえもありませんでした。

<ポトラッチで行われる行事>

 夕食が終わっても延々と行事が続くので子供達は疲れて観客席のベンチの間のフロアーに毛布にくるまれて寝てしまいますが、スギの内皮で作られた大きな首飾りをつけたハマッツァ・ダンサーと呼ばれる踊りの達人たちが大きな面をかぶってダイナミックな踊りを繰り広げるので中央の舞台から目を離せません。踊りの合間には、こちらが本来の目的である大事な出来事の報告があります。報告の90%以上が彼らの言語で話され、英語でのお知らせは、ごく簡単にすまされてしまうので大事なことを聞き漏らしているかもしれませんが、内容は以下のようなものだったように思います。

 地位が高い人、功績のあった人の死亡のお知らせで始まり、亡くなった人の名前を誰々が継いだなどが披露されます。次ぎに父母に抱かれた赤ん坊が紹介され部族の伝統的な名前つけられたことが報告されます。今回ジェフさんもクァクァキーウスの由緒ある名前を襲名しました。彼が生まれた時から持っているヌーチャヌルス族の名前はChuck-us-hootで英訳するとStanding-up-proudという意味になるそうですが、クァクァキーウスの名前はKum A’ La’ Ga Lisになりました。Treasure flowing from the mountainを意味するこの新しい名前がとても気に入ったようで、煙草の箱の余白に書いてもらった綴りを嬉しそうに何度も繰り返し読んでいたジェフさんの姿が印象的でした。ジェフさんのお兄さんは、若い頃バスケットボールの名選手で全国大会でトロントまで行った高校のヒーローだったことが、現在はチーフの奥さんになっている同級生の女性から紹介されました。そしてその息子ウォリーはこの辺りの部族出身者としては初めてジャンボジェットのパイロットの資格を取り、現在はシアトルに在住でユナイテッド航空のキャプテンになっていることが報告され皆から大きな拍手を浴びました。これらの報告は各ファミリーごとに行われるので踊りの合間に延々と繰り返されます。またそれぞれの部族のために尽くした人を顕彰するため、踊りに使われる面などが贈られます。贈呈の後は、その人の名誉を讃えるため、その部族に連なる古老から赤ん坊を抱いたお母さんまで全員が中央に集まり手のひらを上に向け小さな歩幅で前に進む踊りの輪に加わります。私もジェフさんのお兄さんが顕彰された時、ファミリーの一員として観客席から降りてくるように云われ踊りに加わりました。ちょっと照れくさい思いもしましたが、ファミリーの一員として認めてもらったようで、なんだか嬉しくなりました。それからです、ジェフさんの母方の親戚の方々だけでなく、他の方からも気軽に声をかけてもらえるようになったのは。

<ポトラッチのお土産>

 ポトラッチと言えば、帰りにお土産が持たされることになっているとは聞いていましたが、現在でもこの習慣は続いていました。最終日の夜、全ての行事が終了すると、用意されていたお土産が中央に積み上げられます。招いた側の部族の女性達が集められたお土産をプラスチックの洗濯籠に適当に分けて入れてゆきます。正面にすわっている各部族を代表するチーフには毛布などが入った籠が先に配られます。観客席に座っている一般の参加者にもその後、籠が配られます。その他大勢の私にも洗濯籠に入れられたお土産が届きました。私ごとき者がいただいてもよいものだろうかとジェフさんを振り返ると、優しい顔でウンウンと肯いてくれています。中身はタオル、クリスマス・ツリーの飾り、子供のオモチャ、海草(日本のもののように板状にはなっていないが塩味のついた乾燥海苔)の入った瓶詰などで、高価なものではないのですが、ほのぼのとした贈り物に心が和みます。日曜日の朝フェリー乗り場に行くと、バンクーバー島に向かう船に乗る親戚との別れを惜しむ島の人々が多数集まっていました。この二日間で知り合いになった人々にお礼を言い、撮影した写真を送る約束をして私も船上の人となりました。

 アラート・ベイから戻って一週間が経ちましたが、二日間ビッグハウスの中で燃え続けるたき火のそばにいたせいで、私のジャケットには煙の匂い染みついています。ポトラッチで出会った温かい人達のことを長く心にとどめておきたいので、この匂いがしばらく消えないでいてほしいと思っています。

川端 雅章 (バンクーバー支部幹事)

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